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名古屋地方裁判所 昭和51年(ワ)643号 判決 1984年7月12日

原告

鳴川幸宏

右法定代理人親権者父

鳴川宏

同母

鳴川廣美

右訴訟代理人

村橋泰志

被告

滝川敬

右訴訟代理人

太田博之

後藤昭樹

立岡亘

主文

一  被告は原告に対し、金二一八七万〇五四九円及びこれに対する昭和四七年一月六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その三を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、主文第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し金四二二三万三四一九円及びこれに対する昭和四七年一月六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

原告は、鳴川廣美(以下「廣美」という。)を母とし、鳴川宏(以下「宏」という。)を父として昭和四七年一月二日出生した男子であり、被告は、肩書地において「滝川産婦人科」の名称で産婦人科医院を開業し、自らその診療業務に従事している医師である。

2  事実経過<省略>

3  責任原因

廣美と被告との間には、遅くとも昭和四七年一月二日には、原告の出産に関する適切な医学的処置及びその疾患に対する治療を目的とする準委任契約が成立した。ことに原告は未熟児であつたから、その保育管理にあたつては細心の注意を払い、疾病の予防と治療をなすべき注意義務があつた。<以下、事実省略>

理由

一請求原因1の事実(当事者の地位)及び同3の事実のうち廣美と被告との準委任契約締結の事実は当事者間に争いがない。

二事実経過について

1  原告の出生まで

当事者間に争いのない事実に、<証拠>を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  原告の父宏と母廣美は、昭和四二年一一月に結婚し、同女は、昭和四五年五月四日、西尾市所在の安立病院において第一子を死産した妊娠経過を有していた。同女は昭和四六年四月、第二子の懐胎の徴候があつたため、同月七日、初めて被告の診察を求めた。同年六月五日、右第二子懐胎が確認され、同女は被告方へ通院して母体及び胎児の管理につき診察と治療を受け続けた。

(二)  廣美はその後妊娠当初から見られた貧血症状、下肢のむくみがひどくなつたため、同年一一月一七日被告方に入院して治療を受けたが、右入院時の血液検査によれば、血色素(ザーリー値)は三五パーセントと重度の貧血を示していた。同女は同年一二月一日、若干の改善をみたため退院した。

(三)  同女はその後も被告方へ通院を続けたが、この間も貧血、全身倦怠感、むくみがひどかつた。

昭和四七年一月二日、同女は出産のため午後四時ごろ被告方へ入院し、同日午後一一時三〇分、在胎週数三九週で自然分娩により原告を出産した。

(四)  生下時における原告は、体重二三二〇グラム、頭囲三二センチメートル、胸囲三〇センチメートル、身長四六セソチメートルでアプガール(アプガー)スコアーは八点(ほぼ正常値)の低体重児であつた((四)の事実は、原告が未熟児か低体重児かの点を除き、当事者間に争いがない)。

2  出生後、城北病院への転院直後まで

<証拠>を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  原告は、出生後、体重が二五〇〇グラム以下であつたため二六、七度Cに保たれた保育器内に管理され、昭和四七年一月三日午前一〇時、沐浴介抱されたが、その際の体重は二一〇〇グラムであつた。午後九時、黄疸症状を示すイクテロメーター値は三度であつた。

(二)  一月四日、原告は午前〇時及び同三時に各一〇ccのミルクを与えられ、午前七時には一五ccのミルクを与えられ、五パーセソトブドウ糖液(ビタミンB1、Cを加えたもの)の注射が行なわれた。同日(時刻は不明)イクテロメーター値は三度で、体重は二一二〇グラムであつた。

(三)  一月五日、原告は二〇ccのミルクを与えられ(時刻不明)、介抱時の原告の体重は二〇四〇グラムで、イクテロメーター値(測定時刻は不明)は三度であつた。さらに、原告は五パーセントブドウ糖液(ビタミンB1、C入り)を注射され(時刻不明)、午後四時半頃ミルク五ccを与えられた。午後五時頃、原告は全身チアノーゼを来たし、酸素投与により右チアノーゼはすぐに消失したが、顔色が悪く黄疸症状が認められたため(強度の黄疸症状にあつたか否かはのちに検討する。)、被告は小児科専門医による診察を必要と考え、平素患児の受入を依頼している名古屋市昭和区妙見町所在の名古屋第二赤十字病院(通称八事日赤病院、以下「日赤病院」という。)へ転院させることを決意し、同日午後五時頃、原告の父宏に対し、同人の自家用乗用車で原告を日赤病院まで送つて行くよう指示した。宏は、「どうして今から連れて行かなければならないのか。」と被告に転送の理由等を問い質したが、被告は、「診て貰うように連絡してあるから、とにかく行つてくれ。」との一点張りであり、また宏が救急車及び携帯保育器の準備を要求したのに対し、「その必要はない。」と答え、看護婦の桑原を付添わせたのみで、宏及び右桑原に対し診察事項その他の具体的指示を何ら行なうことがなかつた。宏は、その日原告の顔色がかなり黄色つぽく見えたため、黄疸症状が悪化したものと考え、毛布にくるんだ原告を抱きかかえた桑原看護婦をヒーターのついた乗用車の後部座席に乗せ、午後五時三〇分頃被告方を出発した。当時、天候は快晴であつたが風が強く、非常に寒かつた。

(四)  一方、被告は、原告を送り出した直後、日赤病院に対し「新生児を送つたから、よろしく頼む」旨一方的に電話連絡した。同病院の正規の開業時間は午後四時三〇分までであり、右電話の応待に出た同病院の病棟看護婦から被告の依頼を伝え聞いたのは、同病院小児科の当直医となつていた臨床研修医の宗宮医師であつたが、同医師は、診察の結果入院が必要となつた場合、同病院の小児科には保育器の空きがなかつたことや、他の重篤な患児にかかり切りで余裕もなかつたことから受入れは不可能と考え、被告に対し断わりの電話を架けた。しかし、被告は電話口に出ず、看護婦を通じて「送つたから頼む。」というのみで、原告の容態や診察事項等につき説明を行なうこともなかつた。

このため、宗宮医師は日赤病院の産婦人科を当たつてみたが、同科にも新生児を収容する余裕がなかつたので他の病院へ再転送するほかはないと考え、日赤病院に近いところから順次新生児の収容可能な病院を電話で当たり、同医師の先輩である藤原医師の勤務する名古屋市立城北病院(名古屋市北区金田町所在)にようやく再転送先を確保し、同医師の指示に基づき、原告の入院の必要性だけを判断することとした。

(五)  同日午後六時頃、原告は看護婦に抱かれて日赤病院に着いたが、連絡不十分のため、受付で若干時間を費やしたのち、宗宮医師より診察を受けた。その時原告にチアノーゼは見られなかつたが一般状態がかんばしくなく(生気がなく弱々しかつた。)、またその程度はひどくはなかつたが黄疸が見られたため)但し、夜間であり、イクテロメーターによる測定は不可能と判断された。)、同医師はそのまま被告方へ送り返すことは妥当でなく、入院が必要であると判断し、紹介状を書いて予め連絡済みの城北病院へ送つて行くよう宏に指示した。その際、同医師はなるべく早く行くよう申し向けたが、救急車の依頼を要するほどの状態にあるものとは判断しなかつた。宏及び桑原看護婦は、日赤病院の横井医師から城北病院までの道筋を教わつて、同日午後六時三〇分頃同病院を出発した。宏は、途中目的地の城北病院と名城病院を間違えて、中区三の丸の同病院入口まで行つてしまい、このため一〇分ないし一五分位無駄な時間を費やしてしまつた。

(六)  日赤病院より再転送の連絡を受けた城北病院の藤原医師は、保育器に通電して暖めておくなどの準備を行なつていたが、原告の到着が遅いので玄関先まで出迎えていたところ、ようやく午後七時三〇分頃になつて原告が送られてきた。同医師が玄関先で受け取つた際、原告はショック状態にあり、黄疸症状が肉眼では認められない程全身蒼白になり、自発呼吸も殆んどない仮死状態に近く、また、四肢に振戦様痙れんが見られた。そこで、同医師は桑原看護婦から、それまでの病気の経過の概要(一月二日に出生して、一月四日までは異常がなかつたが、同日より黄疸が強くなつたこと、一月五日にチアノーゼの発作があつたということなど。なお、同看護婦は、被告作成のカルテの写しとかそれまでの経過の要点を記載した被告の紹介状のようなものは携行しておらず、自己の記憶により口頭でその概要を述べた。)を聞き取り、直ちに診察室で原告の体重測定を行なつたのち、インキュベーターに収容し、毎分五リットルの酸素を流したが、原告は、右体重測定直後頃からチアノーゼが四肢から全身に広がり、その後完全に自発呼吸が停止したため、同医師は口内吸引ののち人工呼吸を行ない、メイロン、プロタノール等の静脈注射を行なつて、同八時頃、ようやく自発呼吸回復を得ることができた。同医師はこのためその頃からインキュベーター内の酸素量を三リットル毎分に減量するよう看護婦に指示し、午後八時三〇分腰椎穿刺を行なうとともに黄疸治療のためとりあえず光線療法を開始した。

(七)  同日から翌六日にかけての原告の症状は、チアノーゼが四肢に持続し、時折四肢に振戦様痙れんが見られ、全身の色が不良で軽度黄染が認められ、体動、啼泣は殆んどなく四肢未端に冷感が残り、同所にチアノーゼが見られるなど必ずしも良好ではなかつたが、点滴、注射、酸素投与、光線療法等により、入院時には不可能と判断された交換輸血が可能な一般状態と判断されたため、同日午後二時、手術室に運ばれた。

原告の総ビリルビン値は入院時が血液一デシリットルあたり15.22ミリグラム(ないし14.9ミリグラム)であつたのに対し、六日午前一〇時には9.3ミリグラム、午後二時四八分(交換輸血直前)には5.9ミリグラムと急激に減少を示していたが、藤原医師は右減少が間接ビリルビンが脳血管関門を通過したことによる可能性も否定できなかつたことと入院時の仮死により発生しているかも知れない脳無酸素状態(及びこれによる脳の障害)を回復するため、同日四時頃までにO型新鮮血三八〇ミリリットル(その他一〇ミリリットルの輸血)の交換輸血を行なつた。

(八)  原告は右交換輸血後も活気がなく、あまり啼泣せず四肢に若干チアノーゼがみられる状態であつたが、一月七日には黄疸症状はなく全身の色が良好となつたため午前九時半には酸素投与を中止された。同日午前九時と時刻不明時に採血されビリルビン値の検査がなされたが、一度は総ビリルビン値が10.5ミリグラム(間接ビリルビン九ミリグラム、直接ビリルビン1.5ミリグラム)であり、他の一回は総ビリルビン値が6.7ミリグラムであつた。(なお、看護日誌(甲第二号証の四四)に午前九時半の欄に「黄疸測定2.5」とあるのはイクテロメーターによるもので、二度と三度の中間にあつたものと推測される。)

原告は、その後も主として一般状態の改善を目的とする治療(主として水薬による)を受け、保育器内に管理されたが、徐々に改善に向かい、一月二〇日ごろにはミルクを自分で飲むようになつた。

二月八日、体重三二七三グラム、頭囲33.6センチ等の測定を行ない(この結果藤原医師は小頭症の疑いをもつた。)、午後三時に同医師の指示により城北病院を退院した。

右認定に反する被告本人の供述は、前掲各証拠に照らし、にわかに措信し得ず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

3  昭和四七年三月から現在までの原告の状態

<証拠>を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  原告は、昭和四七年三月二日、下痢を主訴として城北病院に入院し、乳児肝炎及び胆のう炎の診断を受けて同月二七日まで入院治療を受けた。

(二) 原告は前記2(八)の城北病院退院直後の一月二七日、脳波の検査を受け、その結果は未熟性パターンを示していたが、特に神経的異常は発見されなかつた。しかし生後五、六か月頃、母廣美は原告がのけぞつてばかりいてはいはいをいやがること、一人笑いはするが目で物を追うことをせず、何事にも興味を示さないこと、外見的にも頭が小さいことなどが気になり、また同年九月頃から頭をかくつと前へ折るような形でのてんかん発作(のち点頭てんかんと判明)が出現し始めたため、同年一〇月二五日名古屋市立大学附属病院外科を訪れ、治療の要否につき意見を求めた。そして同年一一月二日から四日まで気脳撮影のため城北病院に入院した。

(三)  廣美は、友人の紹介で同年一二月下旬頃、東京大学医学部小児科に原告の検査・診断を求めたところ、臨床検査の結果では原告に何ら異常が認められなかつたが、脳波検査の結果ヒブスアリスミアという難治性てんかん特有の脳波が認められ、同科の鈴木医師はACTH(商品名「コートロシン」の注射によりてんかんの発現を抑制するもの)の適応と診断した。そして、治療については、廣美が名古屋での治療を希望したため、名古屋大学小児科の小川雄之亮医師を紹介し、同医師の再紹介により昭和四八年一月五日原告は、再度名市大病院を訪れた。

(四)  同病院では、清水国樹医師が原告の主治医となり、同日から同年三月一六日まで毎日ACTH療法(コートロシン注射)を五一回行ない、その結果、点頭てんかんは一時おさまつたため、抗けいれん剤の内服だけを続けていた。しかし、同年六月一四日、原告は再び点頭てんかんの発作を起こしたため、清水医師はACTH療法を更に一〇回行ない、これによつてしばらくの間発作はみられなくなつた。

(五)  原告は、その後も名市大病院に通院を続け、昭和五〇年一二月二日には、小頭症、てんかん及び発達遅延(当時二才一一か月で一才五か月程度の発達)と判断された。昭和五一年以降も原告は同病院に通院していたがさしたる変化はなく、大きなけいれん発作はなかつたものの明白な発達遅延が認められ、昭和五三年一月九日、放射線科でC・Tスキャンによる脳の撮影を行なつたところ、脳側室の狭小化が認められた。

(六)  昭和五四年六月一〇日、再びてんかん発作が訪れるようになり、それ以降昭和五五年六月一九日まで継続して清水医師の治療を受けたが、その頃の原告の症状は乳幼児特有の点頭てんかんは消失したが、左半身が硬くなつて崩れるように倒れ、意識喪失を伴う発作、腰をストンとつくような形での発作及び全身に強直性、間代性のけいれん発作をおこすものなど多様化を示すようになり、このような多様な発作を併せ持つところから同年二月頃、レノックス症候群の疑いを持たれ、現在では右病名が原告の確定診断名となつている。

(七)  原告の頭囲は、昭和四八年一月五日、四二センチメートル(正常児平均は46.5センチメートル)、昭和四九年五月一〇日、42.5センチメートル、昭和五〇年一〇月46.5センチメートル、昭和五四年八月二三日四八センチメートルで明らかに正常児の平均に比べて頭が小さいことを示し、また昭和五三年一月二四日、原告が六才のときに清水医師が津守・稲毛式乳幼児精神発達質問紙法による発達検査を行なつたところ、発達指数は四〇で二才四、五か月の児童程度にあたるものと判断された。

原告は、昭和五五年四月頃においても月一五回位の発作をおこしており、服薬による治療を継続しているが右発作は治つておらず、右発作の継続又は他の形への変化が予測されている。

(八)  原告は、小学校一年のとき美和小学校(普通小学校)の特殊学級へ入学したが、二年生のとき海部郡佐織町に養護学校が新設されたため、同学校へ入校し、昭和五七年一〇月二八日現在同校五年生として在学中である。右同日現在の原告の症状は、発作が毎日のように起こり、その態様は前かがみに倒れるもの、首をカクカクさせるもの及び全身性のけいれんの三種であり、体の状態の悪いとき、疲労しているときなどに発作の頻度は高く、学校におけるよりも家庭においてその数は多い。そのほか弱視(視力0.01)で視野が狭く、手の麻痺により箸を持つことや字を書くこともできない。言葉は単語は喋るが意味をなしていないことが多く、理解力がないため集団生活になじめない。IQは三〇程度で大きくなるにつれて母親のいいつけを聞かず他人の家へ上り込んだりするなどの問題が生じてきており両親は将来の介護に大きな不安を抱いている。

4  小頭症、点頭てんかん及びレノックス症候群について

<証拠>によれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  小頭症とは、字義どおり平均的頭周値(厚生省又はネイルハウスの統計値)を欠くことをいい、その原因は、一次性(先天性)のものとして脳の形式不全、染色体異常、各種症候群及び胎児期における感染症等があり、二次性(後天性)のものとしては生後の感染症(髄膜炎が多い。)、外傷による脳の損傷等、代謝性の原因によるもの(新生児低血糖症、脳無酸素症など)及び縫合の早期閉塞などがある。

(二)  点頭てんかんとは、頭をカクッと前にたれ、点を抽くような形態のてんかん発作で、乳児に特有のてんかん発現形態である。

(三)  レノックス症候群とは一群の子供の難治性てんかんで、発作の形態は多様であり、強直性発作、意識の瞬間的喪失、ミナクロヌス発作、腕力発作などの運動発作を特徴とし、発作間けつ期の脳波にはスロー・スパイクアワドウエイブ(1.5ないし2.5ヘルツの全般性棘鋭徐波結合)がみられる。幼児期早期に発症し、予後は不良で、精神発達の遅滞を伴い、決定的治療方法はない。その原因も、必ずしも解明されていないが、10.9パーセントは出生前の原因(脳の奇形、結節性硬化症など)、19.4パーセントが産周期の原因(仮死出産、脳無酸素症)、12.5パーセントが出生後の原因(急性脳炎など)によるものとされ、原因不明が57.2パーセントを占めることが指摘されている。

(四)  前記小頭症と(点頭)てんかんには相互に原因・結果の関連性があり、また、点頭てんかんを中心とするてんかん発作がレノックス症候群にみられる難治性てんかんに発展することも比較的多いとされている。

三原告の現症状とその原因について

前記事実経過によれば、現在原告の診断名とされているレノックス症候群は、初期に点頭てんかんとして発現したてんかんの発展形態に他ならないものと認めることができ、その原因は小頭症であつて、これら三者は小頭症、点頭てんかん、レノックス症候群と順次原因・結果の関係を有する(逆にてんかんの結果小頭症が促進される面もある。)ものと認めることができる。そうすると、原告の小頭症の原因が結局現症状の原因であるということができるので、右原因につき検討する。

前記認定事実によれば、小頭症の原因は先天的及び後天的原因に大別できるところ、原告は、生下時体重こそ二三二〇グラムと平均より小さかつたものの、満期出産、自然分娩で生下時仮死等なく、頭囲は三二センチメートルと平均的であつたほか、アプガールスコアーも八点でほぼ正常であり、特記すべき異常は認められなかつたこと、また生後二日間はとりたてて異常はなかつたことなど先天的原因によると疑わしめるに足る事実はなく、一方、昭和四七年一月五日の本件転院により、原告が被告方を出発してから約二時間後(日赤病院を出発してから約一時間後)に城北病院に到着したとき、自発呼吸は殆んど認められない仮死状態であり、到着直後呼吸停止をきたし人工呼吸、酸素投与を施されたこと、翌一月六日午後、黄疸又は脳無酸素症の治療のため交換輸血が行なわれたが、右交換輸血を行なつた藤原医師は、その目的としては後者の比重が大きかつたと指摘していること、原告は右城北病院退院時、既に同医師から小頭症を疑われていること、一般に呼吸困難の状態が三分ないし一〇分位続くと脳に何らかの障害が残るものとされていることが認められ、これらの事実によれば、原告の小頭症は、本件転院途中、長時間に亘り低温の環境に置かれたことなどが原因(それについては、後に更に述べる。)となつて、呼吸困難又は呼吸停止をおこし脳無酸素症になつたことによるものと認められる。

尤も、被告は<書証>を提出し、これによれば母体の貧血が周産期に児の低酸素症を生じ易く、それによつて児に種々の障害を引き起こす可能性があることが認められ、前記認定事実によれば母廣美が原告出産前、比較的重度の貧血であつた事実も認められる。しかしながら、母廣美の貧血が原告の小頭症及びこれに引き続くてんかん発作の原因だとすると、出生直後又はそれに引き続く短時間のうちに右に起因する児の何らかの異常徴候が発現する筈であるが、低体重であつたほかには出生時の原告に何らの異常がなかつたこと及び生後二日間にはとりたてて異常がなかつたこと前記のとおりであるから、胎児期における酸素の欠乏等が原告にあつたものと認めることはできない。また証人は証言中で、重症黄疸(核黄疸)による脳の障害が小頭症の原因ともなりうる旨指摘するが、証人清水国樹の反対趣旨の証言及び本件事実経過に照らし、措信し難く、結局本件転院による脳無酸素症が小頭症と点頭てんかん及びその発展形態としてのレノックス症候群の原因であると認めることができ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

四本件転院と被告の責任の有無について

そこで、本件転院にあたり、被告が患者を転送する医師として、当然に尽すべき義務を尽したか否か、及び、被告の義務違反が肯定された場合に、原告の現症状の直接の原因である転送時の脳無酸素症が右義務違反行為と因果関係を有するか否かにつき検討する。

一般に、医師の転送(院)義務とは、患者の治療に当たつた医師が自己の専門外の医療分野における治療を要すると判断したとき、又は、同一医療分野内であつてもより高度の医療水準を有する医師又は医療施設に患者の治療等を求めるべきものと判断したときに、転送先に対し患者の状態等を説明して受入先の承諾を得たうえで、適切な治療を受ける時機を失しないよう適宜の時機・方法により右転送先まで患者を送り届けるべき義務であつて、右義務は医療契約に内在するものであるということができる。即ち、転送義務のうちには、受入先に対する求諾義務、説明義務と、具体的転送の時機・方法につき患者の態様その他に応じ適宜の選択のもとに安全かつ迅速に患者を送り届ける具体的な搬送義務とが含まれる。右履行の有無を本件についてみるに、前記認定事実によれば、被告は平素から日赤病院に患児を受け入れて貰えたことに安易に信頼し、後記のとおり重篤な核黄疸か生理的黄疸かの識別検査及び治療のため、生後わずか三日目の新生児である原告を転送先の承諾のないまま夕刻送り出し、しかるのちに「送つたから宜しく頼む。」旨の電話連絡をしたものであり、しかも患児がいかなる理由で転送されたものであるかにつき自ら、又は、付添看護婦を介して後医に対し何らの説明を行なわず、これによつて収容可能性のなかつた日赤病院の宗宮医師をして再度の転送を余儀なくさせたものである。すなわち、被告は、受入先との十分な連絡を行ないその承諾を求めたのち原告の転送を行なうべき当然の義務を怠り、更に原告の黄疸症状が軽度で入院の必要がない状態であれば被告方へ直ちに送り返されたい旨の説明、連絡もしなかつたため、右宗宮医師をして再度の転送先の確保と同所への転送指示を行なわせ、もつて合計一時間三〇分位に亘り、ガーゼと毛布にくるまれただけの原告を厳冬のさ中搬送自家用自動車内に置き、これによつて原告の呼吸困難又は呼吸停止を斉したものである(ちなみに被告方と日赤病院及び城北病院を結ぶと、ほぼ三角形の形状となり、被告方と日赤病院間よりも被告方と城北病院の方が近い。原告は被告方を基点として三角形の二辺を搬送された結果となる)。よつて、被告は既にこの点で転送義務を尽さなかつたものということができる。そして、仮に右注意義務が尽されたとすれば、原告は、宗宮医師の連絡により確保し得たであろう城北病院へ被告方から直接搬送されたことが合理的に推測できるから、右注意義務違反によつて生ぜしめられた時間の損失が原告の呼吸困難又は呼吸停止に決定的影響を与えたものと経験則上推認できる本件においては(具体的搬送方法が右長時間の搬送にも耐えうるだけの配慮の下になされており、それでもなお原告の呼吸困難等が惹起されたことの反証もない。)、被告の右義務違反と本件結果との因果関係を否定することはできないものといわなければならない。そうすると、その余の点につき判断するまでもなく、被告には本件結果に対し責任を免れない。

なお、原告の転院理由については、前記事実経過と証言によれば、昭和四七年一月三日及び四日のイクテロメーター値(黄疸比色計による肉眼的判断で一つのスクリーニングというべきもの)はいずれも三度であつたほか、原告には何らの異常は認められなかつたこと、一月五日、日赤に運ばれた際の宗宮医師の診断では黄疸が重度とは判断されなかつたこと、城北病院へ入院直後の血中総ビリルビン値は一デシリットルあたり15.22ミリグラムで原告が低体重児であることを考慮しても「要注意」の段階であつて直ちに交換輸血を必要とする程度には至つていなかつたこと等の事実が認められる反面、生理的黄疸にしては実質生後二日ののちにビリルビン値が急上昇を始めているとも判断されないではないこと、一月五日の夕刻には父宏には重篤な黄疸に思われるほど原告の顔色が黄色に見えたこと、城北病院における看護日誌、カルテ等随所に黄疸が重度であつたことを前提とする転院である旨の記載があることなど、核黄疸を疑わしめる事実も存在し、原告の黄疸が生理的黄疸の範囲内に止まつていたか否かはいずれとも断定し難い。右事実によれば、一月五日夕刻の転院時点において原告に黄疸症状が認められたことは否定することができず、本件転院は右黄疸の程度につき検査を求め、必要とあれば入院治療を求めるためのものであつたものと認めるべきである。この点に関し、被告は、右転院時点において原告には黄疸症状はなく、元来低体重児であるのに更に体重が減つてきたので、右体重減少は正常な生理的体重減少であるが、慎重を期して診察を受けに行かせたのである旨供述するが、措信し難いものといわねばならない。

被告は、日赤から城北病院への再転送は何ら被告の関与なく、宗宮医師と父宏との間で決定されたことであると主張し、因果関係の中断を主張するが、具体的指示も説明もなく、「送つたから頼む」旨の一方的連絡とともに、黄疸症状が認められ、かつ一般状態も悪い新生児を搬送された医師(病院)が、自己の病院に収容可能性がないというやむを得ない状況下で入院の必要性を肯定できる右患児を第三の病院にその承諾を得て再転送することは医師又は医療機関としてむしろ当然の義務であるとともに、当初の転院に際し受入側の応諾を求めなかつた被告に代わつて転送義務を履行する緊急行為と解すべきものであるから、右中間の医師等の介在をもつて再転送中の事故と被告の義務違反行為との因果関係を否定することはできない。

更に、被告は、新生児の呼吸困難又は呼吸停止は何らの前ぶれなく突然訪れるもので、転院にあたりその発生を予見することができない旨主張する。なるほど一般的にそのような事態が予見できないことは被告主張のとおりであるが、前記認定事実によれば、原告は被告が主張する如く、城北病院到着後に突発的な呼吸停止におそわれたものではなく、城北病院到着時に「殆んど自発呼吸を行なわない状態」即ち呼吸困難が継続した状態にあつたもので、そのような呼吸困難がおきた原因は、原告が日赤病院から城北病院に搬送される途上において、長時間に亘り低温の環境(たとえ乗用車にヒーターがついていたとしても、車内の温度はドアの開閉等によつてすぐに昇降するから、病室内における如く新生児に適当な温度を一定に保つということは到底期待し難いのみならず、日赤病院に出入する際には特に、低温の外気にさらされる機会が多くあつたものと推測される。)に置かれたため、低温と搬送による疲労により酸素が欠乏したことにあるものと推認することができる(一般に環境温度が下がると体温も下がり、酸素の必要量がかなり増加すること、そこで酸素の吸入が十分なされないと呼吸困難等がおきることは証人清水国樹の証言によつて認めることができる。そして黄疸症状が認められ、かつ一般状態も悪い低体重児である原告が、低温と搬送による疲労により酸素の吸入を十分にすることができなくなつて呼吸困難がおきたものと推認することができる。)。

そして、収容先を確保しないまま新生児を搬送させることによつて場合によつてはいわゆる「たらいまわし」、「再転送」がありうること、更に右再転送によつて長時間に亘り生後三日目の新生児(しかも、黄疸症状が認められ、かつ、一般状態も悪い低体重児)を寒い冬の夕刻から夜間にかけてヒーターをつけただけの自家用車内に閉じ込める結果となり、これにより右新生児に搬送中呼吸困難等を惹起することが予想されることは一般的な産婦人科開業医の医療水準を基準にしても十分予見可能であり、このような事態を予見することなく、本件転送行為に及んだ被告にはその点で過失を肯定することができる。

従つて、被告は、前記準委任契約につき債務不履行があり、これにより生じた原告の損害を賠償すべき責任があるというべきである。

五過失相殺(ないし寄与率)について

尤も、前記認定事実によれば、原告の父宏が城北病院への転送途上、日赤病院の横井医師から城北病院への道筋を教わりながら、不注意により目的地の城北病院と名城病院を間違えて名城病院へ寄り道したため、一五分位の時間を無駄にしてしまつたことが認められ、原告の呼吸困難の発生につき、右時間もまた比較的大きな影響を与えていることが推認される(城北病院の藤原医師の治療によつて原告が間もなく自発呼吸回復を得るに至つたのは、城北病院到着時より少し前(正確な時刻は不明であるが)に、呼吸困難が起きたことによるものと認められる(もし城北病院到着時よりかなり前に呼吸困難が起きていたならば、更に重大な結果を生じていたであろう。)から、仮に途中道を間違えることがなければ、原告の呼吸困難はおきなかつたか、又はおきたとしても現在ほど、重篤な後遺症を残さなかつたかも知れない。)。

そうすると、右過失は原告の損害額を算定するうえで斟酌されるべきであり、本件事実経過、宏の過失とこれによることが推認される原告への影響の度合、本件再転送の経緯、被告の過失その他一切の事情を総合すると、右過失割合は五割とするのが相当である。

六損害額について

1  逸失利益 金二六四二万七三九九円

前記認定事実によれば、原告は昭和四七年一月二日生まれの男子であるが、本件小頭症、てんかん及びレノックス症候群による発達遅延のため、今後就労して収入を得る見込は殆んどないものと認められる。

従つて、原告の就労期間を一八才から六七才までとし、昭和四九年度賃金センサスによる男子平均年収金二〇四万六七〇〇円に右期間のライプニッツ係数12.9122を乗ずると、逸失利益は金二六四二万七三九九円(円未満切捨)となる(原告の出生日等を考慮し、口頭弁論終結時を計算の便宜上昭和五八年一月二日とすると、右時点における逸失利益損害額は、原告が六七才となる五六年後のライプニッツ係数18.6985から同人が一八才となる七年後のライプニッツ係数5.7863を控除したものに右平均年収を乗じたものとなる。)。

2  慰藉料 金五〇〇万円

本件小頭症等による原告の前記治療経過、現症状、その生活に対する影響その他本件に現われた一切の事情を考慮すれば、原告の精神的苦痛を慰藉すべき金額は金五〇〇万円をもつて相当とする。

3  介護費用 金一二三一万三六九九円

前記認定事実によれば、原告は少くとも一八才までは親の付添看護を要するものと認められる。そして、右費用は一日二〇〇〇円が相当であるから、本件事故の発生日昭和四七年一月五日から計算の便宜上前記のとおり昭和五八年一月二日を口頭弁論終結日とみなす同年同月一日まで一〇年と三六二日間の費用は金八〇二万四〇〇〇円となり、同年一月二日以降の七年間の費用は、一年間当たりの費用金七三万円にライプニッツ係数5.8763を乗じた金四二八万九六九九円となり、合計金一二三一万三六九九円となる。

4  過失相殺

前記1ないし3の損害額を合計すると金四三七四万一〇九八円になるが、前記五において判示のとおり、被告の過失割合は五割であるから、これを斟酌すると、被告をして賠償せしめるべき金額は金二一八七万〇五四九円となる。

七以上によれば、被告は原告に対し、債務不履行により金二一八七万〇五四九円及びこれに対する債務不履行発生日の翌日である昭和四七年一月六日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払をなすべき義務があり、原告の本訴請求は右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(川井重男 三代川俊一郎 原昌子)

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